赤崎神社(あかさきじんじゃ)
伊勢外宮、豊受大神宮の末社で神宮司庁の所管社。祭神は、荒前姫神(あらさきひめ)。
6月22日の「赤崎まつり」は「赤崎さん」として親しまれています。 神社では朝10時から神宮司庁の月次祭の神事が行われ、そのあとは一日中参詣の人並みが絶えません。神社から中之郷にかけては100軒を超える露天がびっしり並び、夕方から大変な賑わいになります。「ゆかた祭り」とも言われ、その名の通りゆかた姿で行き交う人々が多く、情緒豊かな祭りです。
神社の入り口では、その昔この地方で流行病が発生した際、この宮域内の杉の小枝を門戸につるした家々は難を逃れたという言い伝えにちなんで、崇敬会による厄よけの杉の小枝が売られます。杉の小枝を吊るす習わしは今日まで続いています。
浄土宗 春曜山 西念寺(さいねんじ)
孝謙天皇の時代(西暦749~)の創建と伝えられるが、定かではない。もとは鳥羽城内の三之丸に建立され、室町時代 法譽上人が住職(長禄元年、西暦1457~)となり中興開山上人となられた。
江戸時代 鳥羽藩主、内藤家(寛永十年、西暦1633~)の菩提寺となり、現在地に移転させたと伝えられる。本尊は阿弥陀如来立像、山門を入ると鐘楼、庚申堂、宝篋印塔、仏足石、地蔵尊石大座像、千体堂、観音堂、右側に本堂、庫裡がある。
内藤家は内藤和泉守忠勝公まで三代続く。延宝八年(1680)、江戸の増上寺(浄土宗大本山)で徳川四代将軍家綱公の法要で事件は起こった。鳥羽藩主忠勝公と相手の丹後宮津藩主、永井信濃守尚長公はかねてからの犬猿の仲であった。当日は双方とも警護を命じられていたが、尚長公の態度に面目を潰されたと思った忠勝公は意を決し、尚長公に切りかかりとどめを刺した。翌日、忠勝公は切腹、お家断絶となった。この事は松本清張著「増上寺刃傷」にも詳しく記されている。
この事件の21年後に忠臣蔵で有名な赤穂藩主、浅野内匠頭長矩公の江戸城刃傷事件がおこる。実は、長矩公の母は忠勝公の実姉にあたることはあまり知られていない。又、四十七士の一人、奥田孫太夫重盛はもと鳥羽藩の家臣でその姉、波知が嫁入りした時付人として赤穂藩に移ったといわれている。
350年の時を超えて、ここ鳥羽と赤穂とを結ぶ深い縁を感じるこのできごとである。内藤三代様は今も西念寺に眠り、本堂にご位牌、春曜山に墓所がある。そこから見える木々の深い緑と青い海が、遠い昔の悲劇を忘れさせてくれるようである。
弘法井戸と弘法伝説(こうぼういどとこうぼうでんせつ)
右鳥羽4丁目藤の郷、住宅の密集する辺りに川(ほとんどが暗渠になっているが)があり、その流れが海方向に曲がるところに、今も清水が湧く弘法の井戸がある。近年史跡保存のためここに祠が作られ、地蔵が祀られた。弘法の由来について『鳥羽志摩の民俗』によると、「藤の郷川べりの奥谷の入り口に弘法水と称ぶ清水湧きてあり.旱天のときでもこの水涸るることなく、常に近傍の民家の用水となっている.弘法大師、この場所に杖を突き刺して去って後、清水噴出するに至ったといい伝えられている。」とある。また、付近の玉栄山正徳院という寺の庭前に弘法の井というのがある。